【神社】郡天神社跡推定地(羽曳野市)

郡天神社

「郡天神社跡推定地」は、大阪府羽曳野市東阪田にあった郡天神社の跡地、あるいはその関連地と筆者が推定している場所です(実際の旧社地とは限りません)。


郡天神社は、かつての河内国古市郡東阪田村にあった同村の氏神です。大阪府全志などによると、古来この辺りは古市郡尺度(さかど)郷の内の坂田(阪田)と呼ばれていましたが、1615年(元和元年)に東坂田、西坂田、新家の三村に分かれました。東阪田村は1889年(明治22年)の町村制の施行により、古市郡の蔵之内村、西浦村、尺度村、広瀬村と合併して西浦村となり、1896年(明治29年)に所属郡が古市郡から南河内郡に変更となりました。大阪府全志などによると、その当時の郡天神社の鎮座地は南河内郡西浦村大字東阪田字イの辻となっており、菅原道真、事代主命、大国主命を祀っていました。

郡天神社は1907年(明治40年)10月7日に南河内郡喜志村字宮の美具久留御魂神社の郷社で式内社の美具久留御魂神社に合祀されました。現在、美具久留御魂神社本殿のそば(北)に郡天神社の社殿があり、その前には「氏神 天滿宮」と彫られた社号標と江戸時代のものと思われる狛犬があります。

一方、かつての東阪田村である現在の羽曳野市東阪田には郡天神社の旧社地を示す碑などは発見できませんでしたが、東阪田最南端の東高野街道沿い西側にブロック塀で囲われた一角があり、その中に南向きの社と一対の石灯篭がありました。それがこの記事の写真の場所です(当時のGoogleマップでは「地蔵堂」となっていました)。

この敷地は東西約5m、南北約6mあり、南側が入口となっています。こちらには社号標などはありませんが、江戸時代の灯篭に「御神燈」とあることから、こちらが郡天神社の跡、あるいは旧社地から灯篭が移された場所かもしれません。なお、東の広瀬の広瀬八幡宮、西の尺度の利雁神社は旧社地に復社しています。

ちなみに、平安時代の和名類聚抄などに河内国古市郡尺度(さかど)郷(尺度荘)が見られるように「尺度(しゃくど)」という地名はかつて「尺度(さかど)」と呼んでいたようですが、これはもともと「坂門(さかど)」だったようで、埴生坂門、つまり埴生坂の入口の門という意味合いがあったようです。埴生山(羽曳野丘陵)東側の平地は「坂門原」と呼ばれ、西浦の清寧天皇陵(河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ))や、東阪田の「さかとがはらこども園」や坂門ヶ原墓地にその名を残しています。

●合祀先の美具久留御魂神社について詳しくは →https://kininarugou.blogspot.com/2018/10/blog-post_27.html

アクセス

国道170号(旧道)「東阪田」交差点から東に進み、100mほど先の東高野街道を右折して(南に)約180m先の右側です。

約400m北には三角縁神獣鏡が出土した前方後方墳の庭鳥塚古墳があります。


2021年2月撮影

郡天神社跡推定地(羽曳野市)

郡天神社跡推定地(羽曳野市)

郡天神社跡推定地(羽曳野市)

郡天神社跡推定地(羽曳野市)

郡天神社跡推定地(羽曳野市)

郡天神社跡推定地(羽曳野市)

郡天神社跡推定地(羽曳野市)



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